
なかむら果実園の10代目として、この畑に立つまで
皆さん、こんにちは。なかむら果実園の10代目園主です。
なかむら果実園は、ぶどうの一大産地である長野県須坂市を拠点とした、1773年(江戸時代中期)創業の伝統ある農園です。
米作りから始まった歴史は、養蚕業、りんご栽培、そしてぶどう栽培へと、時代とニーズの変化に合わせて今日まで続いてきました。現在は、ぶどう専門の農園として、責任とこだわりを持って、その土地に適したぶどう作りをしています。
「江戸時代から続く、ぶどう園の10代目」と聞くと、聞こえはいいかもしれませんね。
でも正直なところ、僕自身、まさか自分がこの畑に立つことになるとは、夢にも思っていませんでした。

「農業だけはやりたくない」
そう思っていた僕が、家業を継ぐまで
学生時代の僕は、家業の農業とは全く別の世界に憧れていました。
長野の豊かな自然は大好きでしたが、炎天下の中で働く家族の姿、決して楽ではない経営状況を間近で見てきたんです。
「農業だけはやりたくない」――そんな風に強く思っていました。
僕はその想いを胸に勉強に励み、最終的には東京大学の大学院まで進学しました。それは、農業とは全く違う世界で自分の可能性を試したい、という強い気持ちがあったからです。
ヒト・モノ・カネが全て集まっている東京での生活は、とても刺激的で、充実した日々を送っていました。しかし、そこで僕はあることに気づかされます。都会で出会う人の中には、僕と同じように地方の農家出身である場合が多かったんです。
それなのに、彼らは農家である自分のルーツを隠していました。そのたびに、僕はなんだか寂しい気持ちになったのを覚えています。「誇りを持って、堂々と『うちは農家なんだ』と言えるような世の中じゃないのか」と、強く感じました。
当時、大学院に在籍していた僕は、農業が誇りを持てるような価値観を作りたいと思うようになりました。経験を積むために農業系スタートアップでのインターンシップをしたり、ビジネスコンテストに出場して自分の想いを発信していました。
しかしながら、行動をしていく中で、自分自身の経験値が圧倒的に足りないことを痛感しました。社会経験を積むために、あえて大手企業ではなく、新卒から裁量権を持って仕事に取り組める企業に就職をして、がむしゃらに働いていました。

「やりたくない」から「守りたい」へ、僕を突き動かした危機
仕事はとても楽しくて充実していましたが、高層ビルに囲まれ、常に時間に追われる都会での生活を続けるうちに、僕は少しずつ「窮屈さ」を感じるようになりました。
そんな中でふと、子供の頃から当たり前のように食べていた、採れたての美味しい果物や新鮮な野菜が、どれほど恵まれ、幸せなことだったのかと気づかされたんです。
自然豊かな環境で育つ、太陽の光をたっぷり浴びたぶどうの香りや、土の匂いが、無性に恋しくなりました。
そんな思いを抱えながら日々を過ごす中で、転機が訪れました。
なかむら果実園が、祖父母の高齢化によって廃業寸前の危機に瀕した時でした。
彼らが長年守ってきた畑を、もう思うように管理できなくなっていました。そして、両親は会社員として勤めているため、すぐに退職して家業を継ぐことは難しい状況でした。
このままでは、先代たちが200年以上守り続けてきた歴史、そして僕が生まれ育ったこの広大な畑が、もうなくなってしまうかもしれない――その現実が、僕の心を深く揺さぶりました。
何より、幼い頃から愛情いっぱいに育ててくれ、このぶどう園を守ってきてくれた祖父母に、これまでの感謝を込めて恩返しがしたい。
その強い思いが、僕の心を突き動かしました。
東京で培った知識や経験も、この故郷の危機を前にして、何かできることはないか。家族への責任感、そして何よりも、この素晴らしい土地でしか育たないぶどうの可能性を、僕自身が諦めたくないという強い思いが芽生えたんです。
さらに、世界中が未曽有の事態に直面した新型コロナウイルスの蔓延。社会全体が不安に包まれる中で、僕は改めて自分の人生を見つめ直しました。
「人生は一度きり。本当にやりたいことをやらなければ、きっと後悔する」――そう確信したんです。
それは単なる家業の継承という義務ではなく、僕自身の内側から湧き上がる、ぶどうへの、そしてなかむら果実園への根源的な情熱を再認識させるきっかけとなりました。
会社員として安定した職を捨てる怖さは、正直、ものすごくありました。特に、就農したことで収入が激減する現実も目の当たりにしました。都会での生活とはまるで違う、厳しい現実に直面する不安は大きかったです。
それでも、僕はこのぶどう園の未来に賭けようと決意したんです。この安定を捨てて、自ら飛び込んだことという覚悟は、並々ならぬものだったと自負しています。

修行の日々、そして「最高のぶどう」への探求
就農を決意してからは、まさに試行錯誤の毎日です。代々受け継がれてきた技術と知識は僕にとっての宝ですが、それだけでは通用しない時代だと感じています。気候は変わり、新しい病害も出てくる。お客様のニーズも常に変化しています。
その現実に乗り越えるために、本格的に就農する前には、他の農家さんのもとで約2年間、修行させていただきました。
週の半分以上は修行に行き、同時に自分の畑の管理も並行して行っていたので、正直言って「死ぬほどキツかった」です(笑)。
朝から晩まで、休みなくぶどうと向き合う日々。体力的にも精神的にも追い詰められましたが、この期間があったからこそ、ぶどう作りの奥深さ、そして難しさを肌で感じることができました。僕にぶどう作りの素晴らしさを教えてくれた師匠には感謝しています。
祖父母から農園を引き継いでからは、最新の技術から伝統的な知恵までを学び、一本一本のぶどうの木と対話するように向き合っています。
真夏の炎天下で汗を流し、冬の厳しい寒さの中で剪定作業をする。失敗を恐れずに何度も立ち上がり、どうすれば最高のぶどうが育つのか、「最適解」を探し続けています。
現時点で僕が確信したこと、それは、「ぶどうは生き物であり、常に愛情と敬意を持って接すること」。
この哲学こそが、なかむら果実園のぶどうを唯一無二の存在にしていると信じています。

ぶどうの奥深さを探求し、未来へ繋げる
特に力を注いでいるのは、ぶどうの奥深さの探求です。世界には1万種類以上あると言われており、それぞれに個性や魅力があります。
お客様の幅広いニーズに応えられるよう、様々なぶどうを作りこなせるようになること。そして、品種ごとの個性を最大限に引き出し、最高の状態でお届けすること。国内では生産が少ない希少品種にも積極的に挑戦し、新たな可能性を追求しています。
それが、僕の使命だと考えています。
例えば、なかむら果実園が誇る、年間わずか0.1%しか収穫できない「ダイヤモンドランク」のぶどうは、僕の情熱と技術、そしてぶどうへの飽くなき探求心の結晶です。
口にした瞬間に広がる芳醇な香りと、とろけるような甘さは、まさに「奥深さ」そのものものです。
そして、僕たちがこの畑でぶどうを作り続けられたのは、何よりもお客様の温かいご支援と励ましがあったからだと心から感謝しています。お客様の「美味しかったよ」の一言が、僕たちの最大の原動力です。僕たちが作るぶどうが、皆さんの日常に小さな幸せや感動を届けられますように。
最終的には、僕自身の経験から得た「農業は誇れる仕事だ」というメッセージを、このぶどうを通じて発信していきたい。いつか子供が、誰に言われるでもなく、自らの口で「なかむら果実園の跡を継ぐ」と言ってくれる。
そんな日を目指して、これからも最高のぶどうを追い求め続けます。なかむら果実園が、次の100年、200年先も愛され続ける存在でありたい。
これが、10代目園主である僕がぶどうに込める、未来への確かな想いです。僕の情熱が育む一粒のぶどうには、なかむら果実園の歴史と、未来への希望が凝縮されています。
ぜひ一度、その「想いと味わい」をご体験ください。